詩仙堂入園パンフレットより



史跡  詩仙堂
                                                      
 現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは 凹凸カ(穴に果) であり、詩仙堂はその一室である。 凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心にしているところからよばれる。
 丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であった。これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組み合わせに意味をもたせた、蘇武と陶潜、韓兪と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。
 建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の灘を免れ、庭園と共に往時をそのまま偲ぶことができる。  
丈山はここに、「凹凸カ」十境を見立てた。入り口に立つ(1) 小有洞の門。参道をのぼりつめた所にk立つ(2)老松関の門、建物の中に入り(3)詩仙の間、読書室である。(4)至楽巣(猟芸巣)、堂上の楼(5)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸、(6)膏肓泉、侍童の間(7)躍淵軒、庭に下り、蒙昧を洗い去る滝という意の(8)洗蒙瀑、其の滝が流れ込む浅い池(9)流葉ハク、下の池に百花を配したという(10)百花塢、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が園庭を荒らすのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという”僧都”(添水、一般には鹿おどしともいう)等は今も残されてきる。
 詩仙堂の四囲の眺めを見たてた、”凹凸カ十二景”は画家に絵を描かせ丈山自ら詩をつくったものである。丈山の遺愛の品である”詩仙堂六物”、多数の硯、詩集である「覆醤集」等多数の品々が残されている。これらは五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。
 現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。

詩仙堂の四季にはそれぞれ趣があるが、特に五月下旬の、”さつき”、十一月下旬の紅葉などが素晴らしい。


石川丈山       
 石川丈山は、天正十一年(1583)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で家康公に使え、近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親族である。二十三歳の時、大阪夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野候に十数年仕えた。その後母を亡くした丈山は五十四歳の時、京に帰り相国寺畔に住居した。寛永十八年(1641)五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。
 寛文十二年(1672)五月二十三日、従容として、九十歳の天寿を終わった。

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