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偶然の祝福



小川洋子

妙な経験やたとえ話や身近な描写には、大胆で奇妙な現実の雰囲気が広がっている。

小川さんには、たまにどんな本も響かなくて、沈んでいるときなど、寄り添って話しかけてくれるような独特の雰囲気と味がある。日常的な落ち着きから逸れかけているときなどに、それでもいいさと慰められる気がする。

妙な経験やたとえ話や身近な描写には、大胆で奇妙な現実の雰囲気が広がっているが、その根は細くてもどこか現実に繋がっているような纏わりついているような、覚えのある感覚を甦えらせてくれる。
なにかが消え、なきかがあらわれる。消滅していく流れがあり、再生していくものがあり、流れの底には深い悲しみが沈んでいる。そして再生は全く違った形でありながら、稀にその悲しみを埋めるような現象が起きたりする。

別れていくことが当然の人の営みのように、消えていった者たち。残った者の奇妙な現象が手を繋いで輪を作り、その中に作者の現実や、生身の姿を髣髴とさせる響きが低いベース音のように、奥底に流れ続けている、そんな小川さんの世界が感じられる短編集だった。判然としない「もののあはれ」という言葉が語りかけてくる。

現実に大きな数字に上ってきた失踪者のことは、なにかで読んだことがあった。それ以後ニュースや、ドキュメンタリー番組は気になってよく観ていた。年間8万人前後の失踪者(または行方不明者)がいると言う。
私の身近なところでも昨年一人が、家を出たまま行方が知れない。手を広げすぎた事業が傾きある日ふといなくなったのだが、その後見つかったという話を聞かない。遠い従兄弟であってもその後のニュースは恐ろしくて訊けない。

「失踪者たちの王国」
知っている人がいなくなったという。帰って来ない友達の叔父さん、歯医者さんに行って入れ歯を置いたままいなくなったおじいさん、先生の婚約者は「ちょっと行ってくるよ」と言ったままいなくなった。
叔母さんは一人になっても働かないで、家財を売って暮らしているようだったが、航空機などの嘔吐袋を集めていた。そして何も言わず綺麗に失踪した。
失踪した人は、垢を落として生まれ変わったように楽になるのだろうか、反対に現実の重みが降りかかってくるのだろうか。
一度踏み込んでみたい気もするが、こちら側にいるとあちらは陰の中にいるようで薄ら寒い。

不思議にも彼らは私を慰めてくれる。王国ははるか遠いはずなのに、彼らは洞穴に舞い降りてきて、いつまでも辛抱強く、そばに寄り添ってくれる。その吐息を私は頬のあたりに感じることができる

「盗作」
将来を嘱望された水泳選手が片腕が上がったまま動かなくなってしまったという。その後病棟の談話室に英語版の「BACKSTROKE」と書いてある古い本を見た。それを聞いて、本を見て、その話を書いて賞を貰った。

背泳ぎの選手だった弟が、左腕から徐々に死に近づいていく話だった。私が書いたのと、彼女が語ったのと同じ話がそこにあった

「キリコさんの失敗」
なくしたものを見つける名人のキリコさんの話。リコーダーをなくしたら木で作ったのを持ってきてくれた。海外旅行の土産の万年筆が嬉しくて毎日いろいろなことを書いた。インクがなくなってうろたえているとキリコさんが町の文房具屋さんで補充のインクを買ってきてくれた。
ある日キリコさんの自転車にパンが置かれていた。毎日それを分けて食べていたが、パン職人が自殺した。そこにキリコさん宛ての手紙があったという。キリコさんはすっかり元気をなくしてしまった。
無くした万年筆は、むいた栗の皮に紛れて捨てられていて焼却炉で溶けた。
キリコさんは、骨董の壷を頼まれて渡しに行って人違いをした。サインをしているのを見るとなくなった万年筆と同じものだった。買い取ると言うとキリコさんの手に乗せてくれた。だがその万年筆を持っていた買い主は偽者だった。
キリコさんはパン屋さんのことや、だまされて盗られた骨董品が気にかかったのか去っていった。

「エーデルワイズ」
私の本のファンで、衣服にポケットを作り体中に本を入れて歩いている男に出会った。手紙をもらったが、本の一部を寄せ集めた意味不明の奇妙な文章がぎっしり詰まっていた。男は私の困惑にも構わず「エーデルワイズ」の歌を歌ってくれた。付きまとわれていたが、雨の日に転んで本を全部だめにした。そしていなくなった。

「涙腺水晶結石症」
飼い犬が病気になったので、医者に見せようと雨の中を歩いていた。
車で通りかかった男が犬と一緒に乗せてくれたが、獣医だといった。
犬を見て涙腺水晶結石症だと言ってまぶたをしぼって石を取り出してくれた。

「さあ・・・・・」
よく見えるように彼は掌を私に近づけた。それは白く半透明な結晶だた。ちいさな金平糖状の粒がいくつもくっつき合って、一つの精密な形を成していた

「時計工場」
旅行記の取材で行った島で、籠に一杯の果物を背負った老人に合う。首に黄色い蝶のあざがあった。ホテルの図書室で識者の男に出会う。彼の首にも黄色い蝶のあざがあった。
小説を書くという苦しみが象徴的に語られている。

「蘇生」
息子の睾丸がはれていた。そこには水の入った袋があるという。
手術のために入院したが、同室になったおばあさんは、「アナスタシア」という名前だといって、家系や歴史や親族についてとうとうと語る。どう見ても彼女は日本人だった。周りにはAの文字を飾った刺繍が溢れていた。退院のとき刺繍糸のセットをあげるととても喜んで写真を撮ってくれた。切り取った袋は貰って帰った。
今度は私の背中に腫れ物が出来た。水が溜まっていると言う。簡単に袋を取って手術が終わった。その袋も貰って帰った。
ある朝突然言葉が出なくなった。言語療法士にも見てもらったがよくならない。
原稿用紙の前に座ると、言葉の壁が見えた。積みあがっているのは私が書いた言葉のようだ。
言語療法室に行ったらアナスタシがいた、喋り続けるので、言葉の繭にくるまれているように見えた。「アナスタシア」は「蘇生」と言う意味だという。
干からびた二つの袋を飲み込んだ。
「蘇生よ、蘇ること」アナスタシアの言葉が聞こえてきた。
「アポロ」と呼んだら犬の耳がぴくっと動いて言葉が戻ってきた。


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