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消された政治家・菅原道真



平田耿二

難しい官位の読みや意味にぶつかりながら読んでいると、1100年の流れの向こうに道真という人を感じることができた。
著者の平易な解説で疑問が少し薄れたようだ。

先に読んだ大岡信著の「詩人菅原道真」は、歴史と文学の面から主に道真の残した詩文に光を当てていた。
主として文人としての道真像が(当時の歴史的な背景の影響も書かれていたが)漢詩人であり、優れた学識を備えた学者として学問の神になったという歴史の流れや、一方で学聖と呼ばれるに至った経緯などは、近年の研究書も伝記も多く残っていて、私なども今までの大雑把な知識としても理解できるものだった。

だが、政治家という面から見ると、一時は権勢を極める地位にいて、力を尽くして多くの政治的改革案を準備したがその地位が一夜にして崩壊し、遠い太宰府に左遷されたという事件は、その根底にある不思議な経緯については疑問符とともに大雑把に想像される範囲だけだった。
藤原氏との長い確執の末、根本は権力争いという面を持つクーデターに敗れたということはよく知られているが。

この「消された政治家」という表題はとてもインパクトがあって、政治家菅原道真がその大きな流れのなかから、支流に追いやられたというより抹殺されたのに等しい非常にショッキングな出来事を研究者の目で知ることができた。

文人道真の面からしか知らなかったけれど、当時の政治とその根幹を支える税制の形、時代とともに逼迫してきた経済事情など、多くの問題を解決しようとした道真の業績は、現在は政変後、藤原時平の輝かしい業績になって残っていて、基礎になったとおぼしい道真の綿密な草案(実行案)は資料がのこっていないそうだ。

余談だけれど、一昨年の秋「浄瑠璃寺」の帰り「恭仁京跡」に寄ってみた。広い空き地を少し高くした土地に塔の跡だけがあり心柱の礎石が残っていた、当時遷都を繰り返しさまよった聖武天皇と光明皇后一行はその費用も莫大だったろうし、大仏開眼の材料費や人件費はどうなったのだろう、租庸調の税で滞りなくまかなえたのだろうかと、些細な家庭の会計を預かる身に過ぎないけれど、なんだか歴史の跡を訪ねてロマンに浸っていてもいいのだろうかと、ここでも庶民の目には不思議に映っていた。

読んでいると、初期の律令財政はよく機能して国の経済はまかなえたようだ。だが人頭財を基礎として成り立っている間に、道真が実地調査をしてみれば書面上だけでは解決できない出来事も多く、結果財源が不安定になって来ていた。使途は拡大し監査制度も地方に行くと杜撰なものになり、単純な収支費目の裏には多くの矛盾が発生してきていた。
歴史の流れにはこういうことは起こりうることで、実情に合わない原因は、口分田から上がる租税を私有化したり人頭税にかかわる戸籍を偽って減収になることも多く、収支のバランスが大きく崩れ始めてくる。経済的にも苦しく暮らしも貧窮度が深まると村人は逃げ出して人口が減り、帳簿と合わなくなる、記載漏れの減籍という不具合も起きる。

道真は戸籍の不明確な人数による課税制度をあまり変化のない土地税に替え、改めて検地を行うことを定めようとした。
その時に遣唐使の廃止も含まれている(資料が少なく様々な説があるが)道真が派遣されることが決まってすぐの廃止の上奏はその原因に疑惑を生じたことも述べられているが、やはり政治危機、律令制度の行き詰まりから国政改革を優先した決断だろうと推察されている。
しかし、土地改革は多くの寺院や富豪層にも大きな影響を与えた。私有化の増加という問題もあった。
そのために現地調査の検税史の派遣が必要だという案が浮上した、しかし道真は正確に機能するのかを確信できず廃止案を奏上した。税の申告やその調査は人の信頼の上に立つ。律令制度の乱れはそういった人々の欲望から徐々に乱れ財政をひっ迫させていたと考えた。

律令制度の乱れは根本的な改革が必要だという考えは、当時の宇多天皇に受け入れられ権大納言、右大将に任じられ最高の地位について、即実施できることになった。
左大将、大納言に先任の藤原能有の後を継いだ藤原時平が任じられた。以後二人は政治の車の両輪として働くことになる。

その後、宇多天皇は出家して譲位し、13歳の醍醐天皇の世になる。宇多天皇は二人の大臣に助言を求めるよう若い帝に伝えた。この譲位の思惑については諸説あるようだが一線から退くことは道真も賛成したというがその影響を考えなかったわけはない。それでも何もかも二人を通さなくてはならないというのは双頭政治の窮屈さも感じられる。

そして、さあ国政改革に取り掛かろうとした矢先、確執のあった文学博士の三善清行から、陰陽道を元にした道真への引退勧告が出た。藤原氏の敵愾心や反発が表に出たものだという説で、道真は取り合わなかった。
身の危険を感じて道真も減給や官位辞退を申し出ていたが、醍醐天皇が詔で道真の援護をしていた。
しかし、陰陽師説の時代で、予告された不吉な「辛酉の年」を迎えた。道真の新制改革は次々に実現して、藤原氏の影が薄くなっていた正月7日に道真はさらに昇進した。そして25日醍醐天皇から突然、追放の宣命が出た。もっとも輝いていた大臣の地位から一挙に太宰権帥として左遷されたのだった。

宇多法王は二度擁護のために馳せつけたが参内が許されなかった。道真とその家族兄弟一党と藤原氏の明暗が確定した時だった。

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主人なしとて 春を忘るな
君がすむ やどの梢を ゆくゆくと かくるるまでも かへりみしはや

こうして長い陸路を通って太宰府につく。過酷な指令が出て援助もなく、食料や替え馬を与えないこと、俸給も従者も与えず政務に関係させないこと、など前途は非常に厳しいものだった。
連れて行った子供二人とも貧しい生活で亡くし、道真も59歳で亡くなりその土地に葬られた。「菅家後集」

去年の今夜 清涼に侍す
秋思の詩論 独り腸を絶つ
恩賜の御衣 今ここに在り
捧持して 毎日余香を排す
    
若き17歳の新帝に抱いた愛着を57歳の老臣が深い感慨を込めて回想したもの。彼は天道に無実を叫び、荘子の哲学に救いを求め、流罪の苦しさを歌った。天皇に対する忠誠の心は時として乱れることもあったが心の支えであった。

その後天皇家に不幸が続き、また藤原氏も主流の家柄は続かず様々な天変地異が続いた。それを道真に結び付け供養と贖罪の意味を込めて神殿を建て今に至る。

罷免の理由などは推測だが、多くの不明な点はまだ残っている。現代の研究では道真の冤罪に傾き、有罪説より多いそうで、やはり讒言による悲運と、天皇の意思も時流には逆らえないという、いつの時代にも変わらない流れがある。道真は家系も亜流であり政治的な後ろ盾は天皇と道真の私塾に集まったサロン出の官僚が半分を占めていたことで、その優秀な集まりがかえって反感を買った。
道真を排除した後、新しい国家体制がスタートした。後期王朝国家になり鎌倉幕府の崩壊まで続く。

この頃はまた難しい室町時代王朝貴族と武家が並行するする歴史が始まった。

***
子供の頃、新年に友達と藤井寺の道明寺にお参りした。道明寺天満宮は、道真の伯母を祭る尼寺で、今では国宝になっている道真の遺品や筆がある。
今は近くに菅原神社が二か所あり(どうしてふたつ近い所にあるのかが不思議だが)やはり梅の花が咲くころに行くと美しい。毎年初詣に行きおみくじを引いて年が改まる。


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