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「わかる」とは何か



長尾真

「知る」こと「わかる」ってどういうことなのだろう。

まず始めは、映画「ゼログラビティ」を見たことでこの本を読んでみた。
私はSFが好きだができれば映像化したものを見る(しかない)。文字や数式ではとても頭の中で鮮明な絵にならない、想像力と理解力には限界があって。
この作品について宇宙科学者の説明を読んだ。「ゼログラビティ」という映画作品と、現実の研究現場の進歩とのずれを好意的に解説したものだった。 映画を、科学的な見方で楽しむことが出来たなら、いっそう深い感動が味わえたのではないかと思うが。ほとんどの場合、娯楽作品からのメッセージは科学をまぶした人間的なストーリーを楽しんでもいいかもしれないと思っている。好きな小説を選んで読んでいるように。

それでも、出来ることなら作品を丸ごと楽しめたらもっと愉快ではないだろうか。
私は、科学的な分野を理解するのはあまりにも無知に過ぎる。物理科学にしても、数学や化学にしてもほんの基礎の基礎をかじったくらいで、登っても登っても次の頂が現れ、研究者でも未だ見たことのないような山が未来永劫続いているような科学という学問の世界を、文字や映像を離れて理解しようとするのは無理かもしれない。
しかし、今書かれたり作られたりしているのはまさしく、基礎は現代の学問であって、「全ての作品は今を越えるものではない」という文学作品を語る言葉もどこかで読んだことがあるが。

映画を見て、作品は今の科学技術の全てなら、楽しむのは今を基にして想像されるフィクションばかりだろうか。
4Kというものが現れた、そんな日進月歩の現代で、想像力が広がること、それはフィクションというジャンルのとても面白いものであっても、いつか形を変えてでも現実化される夢では無いだろうか。スクリーンに映し出される見えない世界は美しい。映像は未来への夢と希望があまりにも美しい。

探っても探ってもたどり着かない、奇怪で巧緻で更に奥深い創造主(という言葉は便宜上の産物であり、存在したとしても、たとえばそれをXとしたとしても)から見ればみれば創造物のマクロ的な作業の解明に過ぎないとしても、やはり進歩という以外に無い、知識の広がりだと思う。

話は変わるが、病気をして初めて現代医学の進歩を体験した。検査技術はもとより、進んだ検査器具、大掛かりな装置、放射性同位元素を使った染色検査。手術の際のさまざまな器具や進んだ技術。優秀な医師の分かりやすく難しいことを優しく伝える説明技術。そしてほとんど確実だと証明された実験的な治療法。適切な時期に恵まれ、私は進んでその治療法を受けてこれもまことに幸いなことに癌が完治した。
聞けば何にでも答えてくれる、専門の医師や医療技術者を前にどんなに、肉体の構造に無知だったか、細胞の神秘的な集合体であるように見える肉体、臓器について、見えない心というものををいつもすべてのことに対して優位においていたことを感じた。
相互関係はまた別に考えるとしても。

科学も化学もそうだが、身をもって知る、現場に立ち会って初めて分かる。私は想像力が思いやりだなどと分かったようなことを言ってきたが、その想像力は体験した事実があってこその想像であり思いやりかもしれないと思うようになった、最近ではつい口ごもり一言で言い切ることが出来なくなった。
思いやりの無さは想像力が欠けているからかもしれないけれど。それはあながち常に間違っているとは言い切れない。

前置きが長くなったが、この本は「化学技術」がわかることについて、「言葉」「文章」「科学技術と社会の繋がり」について
わかることのヒントが書かれている。
読めば面白く、頭の整理が出来る。

はじめに

多くの一般読者は、本書の「わかる」とは何か」という表題から、学校の教室において先生の説明を理解する過程がどうなっているかといった、学校教育における生徒の理解問題を取り扱っている本、あるいは社会や自然の事象のしくみはどうすればわかるのかを説明する本を予想されるだろう。しかし、残念ながら本書はそのような場面はあつかっていない。本書は、一般の人たちが社会において科学技術と共存していくためには、科学技術とは何かを理解しなければならず、そのためにどのようなことを考える必要があるかを明らかにすることを目指している。(略)

1.社会と科学技術
2.化学的説明とは
3.推論の不完全性
4.言葉を理解する
5.文章は危うさをもつ
6.科学技術が社会の信頼を得るために

特に6の

・ 社会科学と自然科学
・ 人間感情を重視する
・ 学問への信頼
・ 自然科学を超えて

科学を理解することから、東洋と西欧の思想の違い、歴史的な信教の相違、など哲学的な考察も添えてある。

そういった意味で、21世紀は東洋的思想が広く世界中に認識されるべき時代であり、私たちは自身と誇りを持ってこれを主張し、全世界の人々に理解させる努力をする必要があるものと考えられる。これを言語的転回になぞらえていえば、アジア的転向(Asiatic turn)といってもよい、ものの考え方の転向だろう。
 ここに述べた議論はひじょうに乱暴でまちがった考えであると、哲学思想史の専門家から指摘されるかもしれない。しかし、言わんとするところは、絶対的であると思われているかも知れない西欧思想、理性への信仰も、これからの時代にかならずしも妥当なものであるとはいえず、日本人のもつ思想、私が私なりに育ててきた考え方もこれからの時代において大きな存在価値をもつ可能性があるのだということである。21世紀はアジアの世紀であるとすれば、それはこのアジア的転向の意味である、いいたいのである。

そして おわりには

科学的知識は、実験・実証に支えられた壮大な体系をなしていて、これを十分信頼できることはまちがいないが、そのような確実な科学的学問体系といえども、ある種の場面では不覚にもほころびを見せるときがある。したがって、自然科学であってもつねにその正しさを確認し、適用を誤らないように注意することが必要である。まして、最近よくもてはやされている「知」というものは、もっとも不確かで壊れやすいものである。知をもてあそぶ風潮があるとすれば、それは危険なことといわねばなるまい。よく知・情・意というが、20世紀が知の時代であったとすれば、どうやらその時代は終わりかけており、情の時代、心の時代は徐々に転換していきつつあると感じられる。
 私たち一般の人間にとっては「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だからまちがっていないと自分自身にいい聞かせ納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにはない。理屈はつけられないが、自分はこちらのほうに与する、こちらのほうが心にぴったりくる、ということのほうが、実は十分に知っての真実であり、実在なのである」といった側面もある。こういった形の真実をますます大切に思う時代がくるという予感もする。
 それは、科学によって奪われ、失ってしまった人間性をふたたび回復しようとする動きと見ることもできよう。科学は、こういうことについても十分か理解と認識をすること、つまり、この矛盾するふたつの体系を同時的にあつかっていく力を持つ必要がこれからはあるわけで、それができなければ、化学の力は21世紀には徐々に衰退していかざるをえないであろう。

考えさせてくれるとても読み応えのある内容だった。時には脳をクリーニング、リフレッシュする必要があるな(o^―^o)


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