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一茶



藤沢周平

一茶は、晩年になってあの飾り気のない野の俳人になったのだろう、それまでの知られざる記録。

藤沢さんの「一茶」は、自分の経験をだぶらせつつリアルに史実を織り交ぜて書き上げた渾身の作だ。

自身の若い頃の挫折感を常に一茶に見ている、そして厳しいながら深い共感をもって書いている。
他の藤沢作品にある、恵まれない運命や境遇にある主人公に向ける心が、「一茶」という人の生涯にも共鳴している、
全編にわたって、事実を踏まえた想像力豊かな作品で、悲惨で運命に対してあがき続けた一人の「風狂の人」が生き生きと著されている。

一茶は義母と折り合いが悪く、15歳で江戸に出されたが。勤め先も長続きせず、一日の食べ物にも事欠き、住むところも決まらない生活だった。その頃流行した戯れ歌作りでしばしば賭け金を取ったことで俳句の才能があることに気がつく。

江戸で一派を作り、名を挙げ、庇護者を得て暮らしを立てようと志す。しかし育ちや生き方は作品とは別物といっても周囲はそうは思わない、俳諧という作り物の世界も、芸という意味では一部の師匠の牛耳る狭い世界で、中に入っても一茶はつねに変わらない扱われ方で、やはり原因は出自の貧しいところだった。
句作に興じる人たちは、富裕な生活の慰みだったり、既に名のある人の門下だったりした。

一茶はその中で苦悶し、あがき苦しみやがて年が過ぎていく。
芭蕉や蕪村に倣い、周りの宗匠たちにも見習い、少し江戸で名が知れたことを頼りに、地方をめぐって草鞋銭を稼ぐことにする。
句会に出て指導して宿を求め、漂白の旅をすることで月日を埋めていた。鄙びた旅先でも少しの自尊心は満足し、そこから江戸に名前が伝わるかもしれないという考えがあった。
求めた俳諧の世界で、思うように身を立てることは叶わず、ついに帰郷する決心をする。

15歳で出て行く息子を哀れんだ父の遺言書をかたに家を守ってきた弟と相続を争う、お互いに貧しい生活だった。だが無慈悲に感じつつも争いに勝ち、そこで落ち着くべく妻帯し子供をもうける。しかし体が弱かった妻も子も次々に死に、次に迎えた三度目の妻に見とられるまま老境に入る。

故郷に帰り俳諧を日々の糧にした。江戸にいた頃、真剣に句作について語り合った友もなくなっていったが、一茶はその頃になって、次第に自分の句を自己の思うままによみ、それを受け入れるようになっていた。そういう気負わず身近に目を向けるようになって今に伝わる秀句が生まれた。
今の「一茶像」に近づいた。

我ときて遊べや親のない雀
青梅に手をかけて寝る蛙哉

生涯で2万句を作ったという。自然や生活や、思いをこめた句は、中央からは貧乏心を抜け出せない、貧しい暮らしを読んだ卑しいところのある歌のようにいわれ、一茶はそれに対するように、ひがみや諧謔や悪口まで句にしている、それでも今読んでみると自然派、野の詩人として飾らない詩心が返って強く胸を打つ。

「風狂の人」というのは俗世を離れて風流に身を任せ、身寄りや故郷を省みない、自分の求めるところに向かってひと筋に進んでいく人だと思っていた。

私のわずかな知識だと「西行」や「北斎」「芭蕉」。

「風狂の人」とは西行のように風流を求め歌の道を究めるために旅に出た人だった。彼は恵まれた家の出で、努力の結果とはいえ都で貴族の中にも入り帝にも認められた。歌の道を求めて家族を捨てた漂泊の旅だったが、常に政治にかかわり世を正すと言う目的もあった。
「北斎」は絵に狂った人だった。90歳(実88歳)で亡くなるときに、まだあと十年あれば絵は完成すると心を残して死んだと言われている。

だが一茶はただ一日食うために、明日を生きるために俳諧を手がかりに這い上がろうとした。力尽きようとしたとき、彼はまた生きるために立ち、故郷に頭を下げる醜い相続争いも辞さなかった。
藤沢周平の中で「一茶」は一人の人間となって息を継いでいる。

藤沢作品は風景描写も美しい、信濃の空は一茶の境遇を照らすように模様を変えて読者を導く。
風の息づかいにふれる瑞々しい初夏、雲も重い冷え込む秋、冬は雪に閉ざされた閉塞感に行き場のない思い、自然を感じる鮮やかな文章に常に引き込まれる。

「芭蕉」は辞世の句で,旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、
と 詠んでいる。風狂の人は旅をして旅の中で死ぬのか、死ぬ間際まで旅を思うのか、それが名声を得たあとでも、あがき苦しむ運命の中であっても、一筋に生きた人の重みを感じる。「一茶」の読後は何か重たい。名作。


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