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兎の眼 角川文庫



灰谷健次郎

ハエを飼う話は塵芥処理場が舞台では仕方がないかもと読んでいるうちに慣れて来た。世間知らずの小谷先生だから、こうして無邪気に子供の仲間になれるのか。今ならどうかな。

ほとんどストーリーは忘れているくらい昔に読んで、こんなに感動した本は他に知らない、とその時思った。胸がいっぱいになり、読みながら涙が流れて止まらなかった。そんな事があったなと今まで時々思い出していたが、今年のカドフェスのリストで見つけて、読んでみた。

新任ほやほやの小谷先生が、小学校一年生の担任になって、悪戦苦闘しながら成長していく話だった。
学校のそばに塵芥処理場がある。高い煙突からは焼却炉の煙が灰を四方にまき散らす。うずたかく積まれたごみの周りは生ごみの腐敗臭に覆われている。
処理所で働く人たちは、近くに立てられた長屋風のプレハブ住宅に住んでいる。
住民鼻つまみの処理場と、そこから学校に通ってくる子供たちは、非衛生で給食当番を外れてほしいと言われる。特別扱いが当然で、先生も生徒もそういった出来事は環境のせいにして小競り合いくらいの喧嘩は見逃してきた。

さっそく小谷先生がショックを受けて泣き叫ぶような事件が起きた。処理場の子供鉄三が、クラスで育てていた蛙を踏みつぶした。餌にするハエを瓶からとったというのだ。次に起きたのは蟻の巣を観察するために瓶に黒い布を巻こうとしたその時、鉄三が先生にとびかかり、瓶を持っていた子供に襲い掛かった。小谷先生は驚き子供の血を見て卒倒した。

一人娘でぬくぬくと育ち新婚ほやほやだった小谷先生にも、担任の児童それぞれが持っている暮らしが少しずつ見えてくる。

無口で誰とも馴染もうとしない鉄三がどうしてあんなに暴れたのだろう。処理所を訪ねてみて、鉄三がハエを育てていることを知る。
話しかけても「う」と答えるのが精いっぱいの彼に、体の汚れを落とすのに湯を汲んで、たらいで洗いながら話かけてみた。
鉄三は両親がなく祖父が育てていたが、戦争経験がある祖父は心に深い傷を持つインテリだった。
祖父は孫がハエを育てていることは誤解を避けるために隠していたが、少しずつ心を開いてきたように思えて鉄三に図鑑を与えてみた。種別に瓶に入れて育てているハエの名前を調べてシールに書かないといけない、そのために初めて文字を勉強するようになる。
図鑑を見て観察し驚くほどの細密画を描き始める。ハエの習性は見ている先生まで引き込むほど興味深いものだった。

街の食品工場で一種類のハエだけがどうしても駆除できないと、鉄三の噂を聞いて調べてほしいと言って来た。先生と二人ででかけて、工場のそばにある農家の堆肥から発生していることを突き止める。
鉄三はハエを飼っていることが公になったが、処理所の子供たちは喜んだ。鉄三もハエ博士と呼ばれて少し話せるようになった。

その後、塵芥処理場が埋め立て地に移転することになり、長く移転を望んでいた近隣住民と、小学生の通学には少し遠いという問題を解決するために、住民は元の土地に住宅を新設するように要求した。

だが問題は紛糾した。移転はいいが住居をどうするか。

元気のいい先生がハンストをはじめた。
ビラ配りをして注意を受けたりもする。
鉄三の祖父バクじいさんが戦争時の出来事について深く傷ついていることも、親しくなって生々しい話を小谷先生は聞く。
そしてけた外れの侍おじさんが部外者の眼で正論をやじり飛ばす。
窮屈な教育現場で、先生たちは声には出せないが少しずつ歩みをそろえてくる。

今読んでみると、時代の流れもあって、こうした問題が起きても、自己都合な勢いに巻かれるのが当然のようになってきた。すべてが。
中に飛び込むよりは何とかなるだろう、間をおいた方が賢明で、目立たず騒がずかかわらず、最小限の義務を果たし不満は小声で、それがいいと思っても変なつけがストレスになってたまっていく。

こういう暖かい爽快さは改めて心に響く。初めて読んだときのようなこみ上げるものがなかったのは世知辛い経験を重ねたせいだろうか。


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