身の回りの暮らしや、人との交わり、過去の出来事に繋がる思いなどが深く静かに、それがゆっくりとした生活のリズムを刻んで背後を過ぎていく。
山や川の呼吸が聞こえるような環境を知っているか、一山越えることができるかという心境に立ったことがあっても、まだ迷いがふっきれない思いを共有できれば、そのとき南木さんのこの時の心境がもっと深く理解できるだろう思った。
新進気鋭の医師だった頃から、挫折を繰り返しながらたどり着いた今の生活が、私小説とでもいうような味のある文章で綴られている。
「神かくし」
まだ病気が治りきってない秋、二人の老婆と、なぜかキノコ採りに行くことになる。体調を心配しながら付いていき、山姥のような姉妹と雑木林を徘徊する。姉は外来患者で顔見知りだが、人工的な治療を固辞して、自然にまかせて生きている。
川のほとりで採ったキノコでうどんを煮てくれた。アケビも採って食べてみた。
帰宅して、濡れた服を着替えベッドにもぐりこんでいたら帰って来た妻が
「山って、きのうはそうやって寝てたのに、朝起きたらいなくなってて、私が帰ってきたらまたそうやって寝てて、そのあいだに山に行ってたなんて、それじゃあまるで神かくしじゃないのよ」
うつを発病して以来の夫の行動半径の極端な狭まりを知りつくしている妻には、一日中山にいたとの証言が信用できないのは当然だった。
「神かくしかあ。それだよ、それ」
「濃霧」
叔父さんの叙勲祝賀会が鄙びた山奥の旅館で開かれた。濃霧に閉ざされた会場は世間から離れた秘境のようなところだった。何かしらつながりがある人たちだろうが、人間関係を説明されてもさっぱり理解できなかった。
一族が集まった中で、隣に座った老人が、祖母と異父弟だと知ったり、叔父からは早く墓を整えろと言われたり、血縁の集まりは知らないことも煩わしいこともあった。
病院の老医師のことを思い出した。望みとは違った道に進んで医師になったと言う話に
「後悔はしておられないんですか」
「起きてしまった出来事はそれをそっくり身に纏うしかありません、そうやってみんなとんでもない老人になってゆくんです」
と、嬉しそうに笑い続けていた。
隣の席の老人が
「本を書くっつうのは怖えことだ」
と背をさすってくれた。「おれのおやじはなぁ、うけをねらって村の後家の浮気の噂を本にしただ。それでみんなに笑われて温泉の源泉井戸に飛び込んで死んだ女がいただ。酸の強え湯でなぁ、引き上げられたときにはにゃあ、はあ骨になってただ。それっきり本なんぞ書かなくなっちまってこの宿におさまっただ」
「なにをおっしゃりたいんですか」
「たぶん、おめえのおばあさんはそういうこんを教えなかっただんべから、教えておくまでだ。おれだってここでおめえに会わなきゃあ語るまでもなかった。先に死ぬもんが語ることを語るのは仁義だ」
老人の表情は喜怒哀楽のいずれにも分類不能で、語りの単調さだけが印象に残った。
帰り道には濃霧が立ち込めていた。
「火映」
高校の同級生だった山内が亡くなった後、その妻から手紙が来て。書いてあった小説が送られてきた。山内には運動でも勉強でも勝てず、彼は東京の医学部に現役で合格し、論文を発表して肩書きも上がっていた。
高校時代、英文を完璧に和訳して見せた山内が書いたその小説「火映」は、下手な小説だった。
淡い思いを抱いた看護婦と見た火口のうえに火が映っていた。爆発の前触れだと看護婦が言ったので、車を発進させて大急ぎで逃げた。と言う風景が書かれていた。原稿は山内の息吹をまざまざと感じさせた。
ふと着替えをして電車に乗り新幹線で高校まで行ってみた。街はすっかり当時とは変わっていた。
「廃屋」
生家の屋根が飛んで崩れたので、なおすからと親切な隣人から連絡があった。任せきりにも出来ないと、訪ねることにした。体調がいいので、山を越えて歩いてみた。いつの間にか視線が下に向いており、意識して顔を挙げるとそのたびに軽い浮遊感をおぼえる。仕方なくほんの数歩前の地面ばかりを見て道を登っていった。いつか下りになる、いつか下りになる、いつか下りになる……。
空白になった頭の中におなじことばが回転し始め、呼吸が同調し、身体が極めて単純な歩く機械と化す。目的はいつか歩くそのものになっている。
川は綺麗に護岸工事され、家の庭は防護壁も壊れ後ろの森の木々に呑まれそうになっていた。
「底石を探す」
岩魚つりに熱中していた頃、ポイントの場所でいつも乗っていた石があった。川の水が減ったときにその石に、つり大会で準優勝したときの釣果の数17を彫り付けた。病気が治りかけた十数年後、またその川で釣りをした。つれなかったので諦めたが、昔いつも近くで元気に釣りをしていた老人が、車椅子に乗って現れた。カンテラつきの「水面」を貸してくれると言う。それで水の中を覗きながら石を探した。思った場所ではなかったが苔の生えた石が見つかった。
「濃霧」と「廃屋」が好きで静かな雰囲気に浸ることができた、時の流れは、病んだ時間も健やかだった時もこんな形の跡を残しているのだろう。
「廃屋」にたどり着く話の中に息子の破れたスニーカー、散歩の途中で探した四つ葉のクローバー、赤い花が咲く満天星のこと、「歩く坊さん」、物置にあった古いランプにまつわる話、広辞苑で読んだあおぞら「青空」のこと、どれも小さなエピソードになって文中に埋まっている。どの言葉も物語の中にしっくり馴染んで忘れがたい、健康を取り戻したことで、周りのそういったものが目に入ってきて、呼応する精神的な状態が、淡々と書かれている。