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終わりの感覚



ジュリアンバーンズ

高校時代「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と答えた彼。60歳を越え私は記憶を探る、確信?それがなんだったのだ。彼が死んだとき何たる無駄と切り捨てた。私と彼の生。

この物語りは、エイドリアンという優れた知性の生徒が、ロンドンの高校時代に、三人の仲間に加わったことからはじまる。
彼について先生方も興味を示し一目置いていて、彼の意見を聞くことが多かった。
国語の授業で 『「誕生と交合と死亡」―― 全てはこれに帰結するとTSエリオットはそう言っているが、誰か意見は?君から聞こうか、フィン、一言で、これは 何についての詩だろか』
「エロスとタナトスです、先生」「生と死です」
「あるいは愛と死。いずれにせよ、生の本能と死の本能の衝突、そしてその衝突から派生するもろもろをうたった詩です、先生」
私(アントニー)は若さと言う囲いの中にいて、まだ真の人生に開放されていないと思っていた。本物にはまだ出会っていない、エイドリアンだけが一足先に人生と言う文学の持ち主に見えた。

「歴史とは何だろう」
「歴史とは勝者の嘘の塊です」と私は答えた。
「敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんような」
「フィン君は」
「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」

私(アントニー)が人生の終わりに向かっていて、もう終わりだと言う感覚を実感しているとき、作者は、非常に意識的にある方向を示してくれる。
彼は、60歳を過ぎ記憶を遡って手探りをしなければならない事態になっていた。それは自分自身で招いた、性格なり環境なり、経験なりをもう一度再生して見なおさなければいけないものであった。

高校を卒業して4人の進路が分かれた。私には、ベロニカという恋人ができた。彼女の名はベロニカ・メアリ・エリザベス・フォードといった。
週末に家に招かれた。だが母親は優しかったが、名家だったと言う家系や、兄のジャックがエイドリアンと同じケンブリッジに在学中と言うことが、居心地悪くさせていた。見下すような父親の皮肉や兄の無関心もあって忘れられない記憶になった。
 最後に4人であった時、

「で、ケンブリッジでジャックには合ったのかい」
「会ったことはないし、会うつもりもない、、、、、。向うは最終学年だしね。でも、噂を聞いたことはある。雑誌の記事で読んだこともある。それと、一緒にいる連中のこともね」
 それ以上言いたくないようだったが、私が許さなかった。
「で、彼をどう思う」
 エイドリアンは一瞬押し黙り、ビールを一口飲んだ、そして、はっとするほどの激しい口調で、
「イギリス人って、真摯さについて真摯でないところがあるよね。それが実にいやだ」と言った。

二年後ベロニカと別れた。

最終学年になった頃、エイドリアンからベロニカと付き合う許可を求める手紙が来た。
私は、クリフトンつり橋の絵葉書に、何の支障もないとを書き送った。私は平和主義だった。
私は6ヶ月、アメリカへ放浪の旅にでた。
帰って、エイドリアンの死の知らせが来ていたのを知った。風呂場で手首を切っていた。

残念なことだ。
 
三ヶ月前にあったときは幸せそうで、恋愛中だと言っていたそうだ。
誰にも別れは言って来なかったが、ベロニカはエイドリアンを救えなかったのだ。恨んだが今は哀れんだ。

エイドリアンは私より優れた頭脳と厳格な気質の持ち主だった。論理的に考え、得た結論に従って行動した。私たちほとんどの人間は、たぶん反対のことをする。まず本能的・衝動的にものごとを決定してから、その決定を正当化するための理由をでっちあげる。そして、それこそが良識だし言う。そんな私たちへの暗黙の批判だったのだろうか。違うと思う。少なくとも、批判の意図などエイドリアンにはなかったはずだ。

あれこれ考えたが、結論は「なんたる無駄」ということだった。

私は生き残った。「生きのこって一部始終を物語った」とはよくお話で聞く決まり文句だ。わたしは軽薄にも「歴史とは勝者の嘘の魂」とジョー・ハント先生に答えたが、今ではわかる。そうではなく「生き残ったものの記憶の塊」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。

私は結婚し娘ができその後離婚した。
人生が残り少ないと感じ始めた頃、フォード夫人からの遺言とわずかな遺産が届き、エイドリアンの日記を預かっていると言う。
だがそれは今、ベロニカが持っていて、渡す気はないという。どうしても見たい。本来私のものだ。
そして、今まで思い返すことがなかった途切れ途切れの記憶を、思いつかなかった角度から見直してみる。

物忘れが始まるとき(といってもアルツハイマーのことではなく、加齢にともなう不可避の物忘れのことだ)(略)眠れぬ長い夜などに、忘れていた事実がひょっこり意識の表面に顔を出すのに任せる。だが、同時にほかのことも習い覚える。脳は決め付けられることを嫌う。
まるでゆっくり下っていけるなんて安穏とした考えは通用しない。人生はもっとずっと複雑だ、と言わんばかりだ。ときおり、脳が記憶の断片を掘り起こし、慣れ親しんだ記憶ループを混乱させる。かくいう私に起こりおおいに狼狽させているのがそれだ。

私は私が記憶している私なのか。現実は時間とともに流れ、私は今その結果を見る、そしていつか見た川べりを渦巻き遡行してきた波を思った。

トマス・H・クック的ノスタルジックな過去や謎があるのかと思ったが、読み進むと様々な言い回し、伏線がちりばめられていて読み応えがあった。
他から見えていて、捉われるものない中であっても、自分自身には、自分と言う者の輪郭が、明確に見えることはない。
最後まで読んで、再読してみるとエイドリアンの言葉の意味が理解できる。作者の描いた風景(渦巻き遡行してきた波という明確な比喩)の形が、パズルのようにはまる。人生は見えるものを見たい形に変えていく。
アントニーは混沌といい、そう納得した後では誰のものでもなく彼の混沌であったが、歴史も人生も含めて訪れる老齢とはそういうものかもしれないと思えた。


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