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蛇を踏む



川上弘美

薄い本だった。でもふわふわと広がっていくような不思議な世界に浸っていると、すぐ読み終えるのが少し残念だった。

「蛇を踏む」
サナダさんは公園で蛇を踏んだ。蛇は「踏まれたらおしまいですね」「踏まれたので仕方ありません」と言って人の形になって彼女が住んでいる部屋のほうに歩いていった。

サナダさんは数珠屋で店番をしているが、帰ると部屋に女がいて、食事の用意をしてくれて「カアさんよ」という。お母さんは元気で郷里にいるのに。
それは蛇の形になって天井で眠る。薄気味が悪かったが、用意してくれた夕食はおいしかった。一緒にお酒を飲んだりもするようになる。ずるずるそれに慣れていく。

出奔した祖父が鳥と暮らして三年目に帰ってきたことを思い出す。
数珠屋にも蛇がいて、奥さんのニシ子さんの叔母だと言っていると、夫のコスガさんが言う。その蛇は死にぎわになって人の形を作れなくなり、蛇のままになっているが、ニシ子さんが世話をしている。
そのうち部屋に来た蛇が「蛇にならない?」と誘うようになった。

数珠を収めに言った寺の女房も蛇だという。
導師さま。蛇にもいろいろいるんですよ。大黒さんはコスガさんの方も私の方も微塵も窺わずに、ただ住職だけに向かって言う。お二人のところに来た蛇がどんなものだか、その蛇にあってみなくてはわかありっこありませんわ。
そう言うと、あちこちの箪笥から蛇がぞろぞろ出てきた。

大黒さんはコスガさんとサナダさんのところに来て額をなめたが、住職はにこにこしてみていた。
住職は、蛇の女房はいい。子供は生めないが卵は産む。産んだ卵は蛇にしかならないが蛇がそれでかまわんならわしに文句はない。
などと言っている。
コスガさんは、奥さんのニシ子さんのことが少し気味が悪いと言っているが、コスガさんも次第に形が薄く見えるようになる。

寝込んでいたニシ子さんが元気になって店にでてくるようになって、数珠の作り方を教えてくれる。しかし、夜は蛇に責められ睡眠不足になっていく。もうたまらない。
ついに「蛇の世界なんてないのよ」と言ってしまう。
「いい加減に眼を覚ましなさい」「覚ますのはあなたよ」「そんなこと言って」
女はぐいぐい首を絞める。気持ちいいんだか苦しいんだか、女は相変わらず変な顔だ。それならばと思って女の首を絞め返す。
そして部屋は流されてゆく。

「消える」
家族が次々に消える。でも私にだけ気配が感じられる。上の兄が消えたので、婚約者は古くからの月下氷人のテンさんの勧めで次の兄と結婚する。結婚すると次の兄は嫁さんに冷たくなる。消えた上の兄が、次の兄の嫁さんのところに来ている気配がする、嫁さんはその時胸を押さえて苦しがっている。そのうち嫁さんが「鶴が鳴いています」と不意に言い出し、それを言うたびにひゅんと縮んで、とうとう芥子粒ほどになってしまう。テンさんが「返すかね」といい嫁さんは実家に帰っていった。
次の兄も消えて、私の身体が膨れはじめた。縁談の話をテンさんが持ってきて、嫁ぎ先は決まったが、甘い婚約者の声を聞きながら、嫁ぐと私の体も変わっていくのだろうかと思う。

「惜夜記」
短い不思議な雰囲気の話が19編入っている。

その中では「馬」が面白い。背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった。
それが痒くてたまらなくなり走り出す。走りすぎて鼻息が荒くなり身体から湯気を立て叫ぶといななきになった。人々は「夜が始まるよ。夜の馬が来たよ」という。得意になっていななくと夜が濃くなった。

「ツカツクリ」
5メートルほどの塚の上に、ビロードの敷物を敷いて、そのものが座っている。何かを持ち上げるように手のひらを上に向けて片膝を立てて微動だにしない。
塚の周りで大きな鳥が鋭いくちばしでそのものをかじり始める。夥しい血が流れ、そのものはかじりつくされる。布は鳥の羽ばたきで舞い上がり、その下には何十もの卵があり、鳥たちは喜びの声を上げる。
目に見えぬものとなったその者の気配があらゆる方向に広がり地と天の間を満たす。
気配に包まれて夜はいよいよ更け闇は真のものとなっていく。

ほかに、夢とうつつの境のような、不思議な世界が展開する。それは言葉で築いた虚実の境目のようだったり、おぼろな心の裡にある形にならない気配だったりする。それが何かわからないけれど、読んでいると共鳴して振るえるような気持ちになる。
ありえないようなものに巻かれて、どこか解らない、妖しい世界に連れて行かれる。時間だけは規則通りに流れているが、得体の知れない、ふと迷い込みそうな刻や物事が見えるような気がする。そんな奇妙な話が詰まっている。

これは「うそばなし」だそうだ。ファンタジックな虚構の世界が文字になって漂っている。知らないものに触れるかすかな恐怖も感じる。

この芥川賞は面白かった。


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