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さぶ



山本周五郎

山本周五郎を読んだ。

小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛けをしめ、頭から濡れていた。雨と涙でぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑になっている。ずんぐりとした軀つきに、顔もまるく、頭が尖っていた。――― 彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは痩せたすばしっこそうな軀つきで、おもながな顔の濃い眉と、小さな引き締まった唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の性質をあらわしているようにみえた。

山本周五郎賞という多くの作品を読みながら、肝心の作品を読んでなかった。この賞は優れた物語り性を顕彰されるものだそうで、お話好きとしては、まず題名だけでも拾い読みはしておくべきだと思っていた。

検索してまず読みやすそうな、それでも名作といわれている「さぶ」にした。これはテレビか映画で見たことあったからで、主人公が逆境にめげず、かえってそれをばねにして成長する、今でいうビルドゥングスロマン、ちょっと涙がにじむような話だった、その上友情物語で、身分制度の冷たさと逆にそれがあった故に際立つ人のつながりの暖かさが、うっすらと心に残っていた。

二人がまだ子供だったころ、奉公の厳しさから逃げようとする「さぶ」を「栄二」が引き止めるところから始まる。
二人は表具と経師で名を知られる店で働いていた、おとなしく勤めていれば手に技がつき独立もできる、「さぶ」は貧しい百姓の出で「栄二」は孤児だった。同い年の二人は常に助け合っているが「さぶ」は栄二を心から慕い尊敬していた。

この賢く、器用な技を持ち整った顔立ちの栄二の話が主で、彼はその生まれながらの才能を持っているが、間違ったことには目がくらむような怒りを覚えそれを抑えきれない性質で、幾度となく誤解され冷遇され、罪を着せられて生死の境をさまよう。濡れ衣を着せられ小石川の人足寄せ場に送られ、そこで寄り集まった人々と暮らすうちに彼は少しずつ成長していく、小さな出来事が積み重なって彼が育っていく様子が人情ものとして読みがいがある。

「さぶ」の献身も美しい。

こういった話を読むと、深い人生訓を言うような固いものからは感じられない香りが、心を優しく撫でていくような読後感を覚える。

日本的な身分制度や、使用人の悲哀や、貧しさの悲しみを物語の中に忍ばせている。ストーリーといえばありきたりに墜ちるような中で、無垢で善良な「さぶ」を題名にし、「栄二」を主に、眼に浮かぶような小さなところを描写する目や、ややもすれば勧善懲悪という定型に陥りそうな話を、江戸時代という枠の中で書き尽くした、こんな物語を描いた人なのだ。

これだけではない。山本周五郎という無冠を誇りにした人が描いた、「赤ひげ」「樅の木は残った」「厳かな渇き」「虚空遍歴」など多くの名作をもっと読むべきかもしれないと思った。


お気に入り度:★★★★☆
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