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ハルムスの世界



ダニイルハルムス

悲しみを越える前衛の言葉は、今も変わらずに生きている。

こんな本かなと予備知識で想像はしていたけれど、それをはるかに越えるほど面白かった。

ただ面白いのではないところに深く残るものがある。書かれた時期がスターリンの恐怖政治の真っ只中、粛清に次ぐ粛清で、生き延びることが優先で、後世に残る文芸大作は19世紀に花開き、20世紀が明けると細々と息継ぎをしていたことが良く分かる。

特異な作風で世に出ようとしていたハルムスもご他聞に漏れず、小出ししていた作品が見つかって逮捕、その後児童文学に手を染め、マルシャークなどの助力で出版社で働いたが、最後に逮捕されて刑務所で死んだ。

認められたのは時間を経てペレストロイカ後に見つかった原稿が出版されてからで、それまで自家版もあったが粗末なものだったそうで、彼の貧しさや生きにくさが忍ばれる。

過去の歴史には、私の浅学でも、魔女裁判のように、隣人も信じられない、事実無根の風評で刑を受けることも多い。わが国でも多くの小説が物語るように、自己を守りたい一身で他人を犠牲にしたり、権力・地位の誇示や、間違った主義のために他人を差し出すこともいとわない、今でも人間の心の奥の闇が変わりなくある。もしそうした力が正当化される時代になれば、知識や理性がどれほどの役に立つだろう。

ハルムスの世界は、そんな痛々しい抵抗感と世間・政治に対する不信感、拠って立っているところ、信頼できる生活の脆さや、命の軽さ、吹けば飛ぶような群衆の姿を風刺し、笑い飛ばし、言葉の多重性に隠れた本音を、ぶつけている。
ところどころに挟まっている訳者の解説(コラム)が初めての作者と、その時代について理解するのに随分役に立った。

訳者が選んだと言う短編集(ハルムス傑作コレクション)は、おおよそのものが前半に集まっている。まさに言葉の前衛、脈絡のなさそうな文章の積み重ね。飛躍、滑稽な、あるいは懐疑的な、恐れ、それらが短い混沌の中でない混ぜになって現れている。よく読めば、そんな言葉は彼の書くという意識の一つの意味を構成しているのだろう。

結びの一行にサラっと書き流した部分で、生き物のように笑いを爆発させたり人間を綺麗さっぱり消してしまう。不条理な作品といわれるように言葉の不条理が寄木細工のように、ハルムスの本質を形作っている。

そして後半、彼の代表作「出来事」(ケース)の作品が40編、時々解説(コラム)を挟みながら並んでいる。

こちらは、一つの作品が文章として完結しているものが多い。分かりやすい。
やはりテーマは並でない不条理が選ばれているが、それは恐怖や、空虚な生活が基本にあったとしても巧みに笑いにすり替え、何気ない暮らしの中の出来事がどんなに滑稽なものであるかを見せてくれる。

会話のすれ違い、行き違い、人の無駄に見えるこだわりについて語るブラックなユーモア、多弁。優柔不断など。彼は人間の交わりは殆ど滑稽なものに見えていたようだ。それは時代のせいかもしれないが、今読んでもそんなに変わらない出来事を目にすることが出来る。
言葉は、書き表した時点で、口から出た時点で独立し、本質とは少しずれている。そういうもので、それがどう読まれるかは人それぞれに異なっているが。

ダダイズムやキュービズムといった画家の世界は、道具が違っても言葉の世界にも通じている。不条理の世界が最も近いと思ったときはもう生きていけない世界にいるのかもしれない。
ミロの線の中から明るい何かを見ることができる人は、スポーツなら真っ直ぐにあげたトスで綺麗なスマッシュを決めてしまう。しかし心の前衛は誰が理解し受け取ることが出来るだろう。
恵まれない時代に生きた作家の、シニカルな笑いの作品は素晴らしい。

男の頭にレンガが落ちてきてコブが一つ出来た。何をしようとしていたかは少し忘れた。
またレンガが落ちてきて二つコブができた。もっと後のことを忘れた。
またレンガが落ちてきて三つコブができた。もっともっと後のことを忘れた。
4つ目のレンガがあたりすっかり忘れた。

寓意に満ちている。

「名誉回復」
先につばを吐きかけたので、私はその後アイロンで殴ったんです。
足を切ったときはまだ死んでいませんでした。殺人ではありません。
殺したのはドアを開けたからですそこになぜいたのです?慣性の法則のようなもので、機械的なものです。
強姦ではありません、処女ではなかったし死んでましたから。
その腹から子供を出したのは私でも子供が生きることができなかったのは私のせいはありません。頭がもげたのは首が細すぎたからです。
犠牲者の上で排便したのは自然の欲求です。ナンセンスというものです。
だから無罪を確信しています。


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