☆ 沙羅の実
今ではサラといっても沙羅双樹と間違える人がないくらい知られるようになった。美しい夏椿というれっきとした名前があっても、なぜかサラと言う音の響きが白い花に似合って、殆どの人がサラの木、サラの花と呼ぶけれど。その実にまつわる話。
不動産会社の営業マンが話を詰めにきた。もう既に気心も知れて親しくなっていたところに、父親が帰ってきた。
雑談中に、昔勤めた学校に彼が居たことに父が気がつく、父親は担任ではなかったがその時起きた事件を思い出す。
そして父親は彼を散歩に誘い、心にわだかまっていた話をする。その事件に関係した彼は、今まで大きな心の荷を背負ってきたのではないか、と話しかける。そして彼が持っていたストラップの先の、心の荷の塊のような椿の実を預かる。
父が気づく切掛けになった真実は、椿の実とともに彼の手を離れた。
誰も気づかなかったかも知れない椿の実に隠された出来事と彼との奇遇とともに。
☆ 君の歌
卒業式が済んだ後、余り親しくなかった同じクラスの高崎から声がかかった。彼は駅までの道々、昔の思い出話を始める。それは今のモテ男からは思いも寄らない打ち開け話だった。いい結末。
☆ 雪の糸
スナックのカウンターを挟んで、別れるという得意客の男女の話を聞いているﾊﾟｰﾄの女性の想い。
その話の中に紛れ込んだ桜と、降っていた花びらのような雪のはなし。そこから、ある事件の陰が見えてくる。美しい背景に溶け込んだ一人の男の姿がほっとした結末に繋がっている。
☆ おとなりの
ひらがなの題名のようにほのぼのとした話。
同じ分譲地内で殺人事件が起こった、泥棒の居直り殺人だったが、運よく通りかかった老人の証言で犯人が捕まった。
だがその時刻に息子も現場を通りかかっていて警察の尋問を受けた。だがお隣の奥さんが、息子のアリバイを証言してくれて疑いが晴れた。
風邪で学校を休んでいた息子がなぜ事件のあった時刻にその家の側の坂道を降りてきたのか。引きこもりがちの奥さんなのにその時間になぜ偶然にもせよ息子を見かけたのか。父親は何か釈然としない気分でいた。
目撃者の老人は、同じ時刻によたよたと同じコースを歩くのが日課だったが、思いがけない特技を持っていた。
隣の奥さんは、専業主婦希望の人で家事に優れ、引っ越してきて言葉を交わすようになった母親が、得意の社交ぶりを発揮して自治会に引っ張り出し、そのあとは何くれとない細やかな付き合いをしていた。
彼女の話は実に信憑性の高いもので、息子に聞いてみると、事件の時間に外に出たのには深いわけがあった。
今、そのお隣は転勤で空き家になっているが、近々帰ってくるというので心待ちにしている。
近隣の付き合い方なども含めていい話だった。
☆ 野バラの庭へ
鎌倉の別荘に住む老婦人から自分史のようなものを書いて欲しいと依頼が来た。
イベント企画会社の社員が担当になって話を聞きに行く。
旧市街の高級別荘地帯で、少し奥まったところの広い土地に、緑に囲まれた家があった。
話を聞きに行くうちに知ったのだが、昔、ガーデンパーティーの準備が出来ていた時、婦人の兄の許婚が二階の部屋からふっと消えてしまった、未だに行方が分からない、そのいきさつが謎とされている。
だが最近解ったところがあってそれも書いてほしいという。
老婦人が子供のころ、二階から手を振っていた直後、その許嫁がどうして消えてしまったのか。家中を探しても痕跡がなく、庭師が男と出て行くのを見たと言うが、その後の消息も知れなかった。
この作品は作者が一番力を入れて書いたようで、インタビューに通う女性記者とともに、結末が気にかかる。