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聖地感覚



鎌田東二

訪ねたのは勝手に招かれたように感じていたのですが、読んでみるとそこは聖地でした。
古来から神が住まわれ、祭られていたのです。そこに立つと不思議な気持がする、これが「聖地感覚」なのでしょうか。

mono sashiさんの優れた書評を読んで、今までなんとなくモヤモヤしてきたあの感じはこれかなと思ったのです。

山深い村外れにあった家が母の実家でした。子供のころ、機会がある度に連れられていき何日か泊まって帰るのです。
広い座敷に床を延べてもらって寝るのですが、大人ばかりが居間で談笑している声が聞こえると、座敷は少しさびしいところでした。
眠れないと、おじたちが順に来てお話をしてくれるのですが、今思えばそれが速く眠らせる魂胆なのか、狸や狐やガマのお化けなどが出る民話のようなものが多かったのです。一応それでも可愛がられていたらしいのですが、昼間の疲れですぐに眠ってしまっていました。
家の前の川を少し下るとうっそうとした森の道になり、中に入っていくと道沿いに「閻魔堂」と呼ばれる四角い建物があって、夜に通るとそこからチラチラ光が漏れ「今日も修業さんがいる」と大人たちが言うのです。
後ろの崖の洞窟まで縄梯子がかけてあってその中で修行中らしい白衣の姿も見えて、恐ろしく(この本で言う畏しい感じがそれかも)走り抜けたいと思ったものです。

学生時代は休みごとに宿題をもってさっさとその山の家に行きました。
裏山から「お~い」と叫ぶとこだまが返ってくるし、夕立は遠い峰から降りてきました。天の川や星の数は今でも夏空に鮮やかです。

その後、そういった自然は生活から遠のき、成人してビジネス街のビルの中に勤めだしたのですが。
この書籍の中に出てくる山々。聖地と呼ばれるところに行くとほっとストレスから開放され、友人を誘っては山に登ってきました。この本の中で、まだなのは青森ですが「恐山」という本を読んでいった気にいはなっているのです。

学問的な部分は興味深く、神仏を祭ることになった謂れや起源も知ることが出来ました。

聖地感覚というのは、著者の鎌田先生のような体験、スピリチュアルな経験をしたことは私にはないので凡人に過ぎないのですが、信仰も持たず、通り合わせれば少し敬虔な気持ちになって鳥居をくぐって正面の神様のあたりに手を合わせ、お寺では気にいった仏像をしばしばたずねて、薬師寺では日光・月光さんに見とれ、今年はお会いしてないと言うと回りから「ホレホレ行くのだ」とはやされているのです。

「聖地感覚」は私の場合、「感覚」だけで言うと聖地を訪ねたときだけでなく、車に乗りますので、ふと、この道はやめようと思ったり、生活者として何かこだわりを持ったときなど素直にその感覚に従うことがそれではないかと思われます。

何度かそうして危険を回避してくると、やはり人間も何か人知の及ばない、大きな自然の一部ではないかと思うのです。
普段は明朗快活だといわれ、何事もまぁいいかで済むような安易な浅い生活をしているのですが、わたしもわずかながら、何か言葉に出さない不思議な感覚も持ち合わせていて、そういった傾向の本が好きというのも、そんな深い森の中の、太古の自然の雰囲気がわずかに残っているように子供心に感じた、不思議な生活の経験があるゆえんではないかと思いました。

山の中の屋敷に行くと今でも何か不思議なものが住んでいるような気がしますが。「遠野物語」のような民話も、もう余り怖くもなくて、遠野出身の友人と話すと、子供のころはこわかったねぇというのです。

東山三十六峰の地図を広げてみたりしながら、大和三山も、三輪山の起源もとても興味深く勉強になりました。先日熊野の入り口まで行ったのですが、珍しい見たことがない「アサマリンドウ」が咲いている、と聞いただけの動機でした、曇り空で花は開いていなかったのですが一面の紫色の小さいつぼみが可愛らしかったです。
途中学生さんたちが熊野古道というはっぴを着て歩いていましたが、海抜749Mのところにある阿弥陀寺はチラホラと花好きの人が来ていました。

リンドウとお寺の写真です。


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