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西行花伝



辻邦生

京に上り、政にも拘わり歌を詠みつつも、この世を浮世とみる心が芽生える。己の心に従い過ぎる時のままに生きることにした。西行の歩いた道のりは、辻邦生という作家の筆でより深く語られている

花の季節に、西行墳のある弘川寺を訪ねようと思っていた。今年になって、桜の季節までに評伝を読んでおこうと思いたって、辻邦生著のこの本を選んだ。

藤原鎌足を祖とする裕福な領主の家に生まれたが、母の願いで官職を得るために京都に出た。
馬術、弓道、蹴鞠、貴族社会の中で身につけなくてはならないものは寝食を惜しんでその道を極めた。
流鏑馬では一矢も外さない腕を見せ、蹴鞠は高く蹴り上げた鞠を足でぴたりと止めて見せた。
当時の社会で歌の会に連なることも立身出世の道だった。武芸が認められて鳥羽院の北面の武士になり、歌の道でも知られてきた。

鳥羽上皇の寵愛を失った待賢門院を慕ったことや、突然従兄の憲康を亡くし、その失意から出家したといわれてはいるが、辻邦生著の「西行花伝」は著者の想像力と、残る史実を基にした壮大な芸術論で、西行が歌の中で見出した世界が、著されている。
そんな中で出家の動機がなんであろうと、その後、この世を浮世と見て、自然の移り変わりを過ぎ行くものとして受け止める心境を抱く切っ掛けが、出家ということだった。

「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

人間の性には、どこか可愛いところがある。そうした性の自然らしさを大切に生きることが歌の心を生きることでもある。肩肘張って生きることなど、歌とは関係がない

「はかなくて過ぎにしかたを思ふにも今もさこそは朝顔の露」

時代は院政から武家に政がうつっていき、保元・平治の乱が起き、地方領主は領地境で争っていた。
西行は、待賢門院の子、崇徳帝の乱を鎮めるために力を尽くし、高野山に寺院を建立し、東大寺再建の勧進行のために遠く陸奥の藤原秀衡を訪ねたのは70歳の時だった。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」

こうして出家したとはいえ時代の流れに関わり続けながら、それを現世の姿に捕らえ、歌は広く宇宙の心にあるとして、四季の移り変わり、人の世の儚さを越えた者になっていった。森羅万象のなかで、花や月を愛で、草庵を吹く風の音を聴いて歌を読み人の世も定まったものではないと思い定めた。
そうした西行の人生を、辻邦生という作家の筆を通して感じ取ることが出来た。

「仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」

「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 」(百人一首86番)

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」 

と詠んだ春、桜が満開の900年の後、西行墳を訪れ、遠い平安・鎌倉の時代に生きた人の心が実感された。

(西行が庵を結び、そこで亡くなったという広川寺を1016年に訪れた時のメモです)


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