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詩歌の待ち伏せ〈1〉



北村薫

<待ち伏せ>という題名。読書好きにとってこういうシーンが多ければ多いほどいい。本を開いて出会った言葉や文章に再会した感動とか、懐かしい題名を思い出し長い疑問が解けることがある、とか。

北村さんの、そんな嬉しい出会い、まるで待ち伏せに逢ったような驚きと感激が満載のエッセイ。

読書を積み重ねていると、忘れられない言葉や文章に出会う。それに思いがけない所でまた出会う。作者が引用していたり、登場人物のふと浮かんだ想いだったりする。
 北村さんが取り上げる様々な詩歌との出会いを読むと私も時の流れに埋もれていたものを改めて思い出す。ああそうだった、そんなところが好きだったと。

ここではタイトルのように詩や俳句短歌に限っているが、それでも読書量に比べて一冊には収まり切れなかったらしい。い1,2,3とシリーズが出ている。

あげられているものは、人柄を写してほのぼのと暖かい、どこでどんな風に出会ったか。収められている詩や俳句の断片が、作者の歴史と重なり、読んでいると、昇華されていなかった謎解きやほかの読み手が受け取った違った面や新しい意味に目が開く。知識を広げる爽快さも味わうことができる。そして鑑賞の深さや理解が、また違った楽しみを開いてくれる。
面白かった。
200ページに足りない本だが自分を振り返りながら読むと、読むことがどんなに愉快で心にしみるものか、幸せを感じた。

例えば少年少女の詩に,純粋に驚き感動する。

「じ」 松田豊子 京都・竹田小4年

おとうさんは
「じ」だった
せんそうに行かれなかった
せんそうにいけなかってよかった
ばくだんで
家のとんだ人
おとうさんに死にわかれた人
しょういだんでやけ死んだ人

お父さんは
「じ」でよかった
「じ」でよかった

不謹慎ながら吹き出し、捕らえられた。病気にユーモラスなものはないし、生理的に読むのが苦手だが力を持っている。
たまたま「キリンの詩集」でこの「じ」に再会して嬉しかった。

私も生理的な言葉を露骨に書いているのは特に苦手で、途中で本を置いてしまう、文学というものの価値を知るには読まなくてはいけないこともあるとは思うけれど。

サキサキとセロリ嚙みいてあどきなき汝を愛する理由はいらず  佐々木幸綱

セロリはお洒落、野性的という人もいたけれど
北村さんは都会的と読む

胸に抱く青きセロリと新刊書  舘岡幸子

きゅうりをかじってもセロリをかじる日常はまだ現実ではなかった。
堀口大學はある女性をセロリの芯コにたとえた「日本のウグイス 堀口大學聞き書き」
母白い。
サキサキという音で、砂漠の歌の「サキちゃんも思い出す」
「月の砂漠をさばさばと」とはいい話だった。

『閑かさや岩にしみ入る蝉の声』
その蝉はなにぜみか。北村さんはいっぴきのアブラゼミのように思っていた。
ニイニイ蝉や法師蝉では軽すぎるし日暮は寂しいし、アブラゼミが一匹ジーと鳴いて染みこんでいくと。
ところが大人になって諸説あることを知った。現在ではニイニイ蝉であろうということに落ち着いている「芭蕉全句 加藤楸邨」
また多数説もあるらしい。

多数という説があるのには驚きました。感じ方は色々あるものです。それは面白かった。しかし『作られた時と場所を考えるといた蝉はこれこれだ』などという迫り方には、正しくとも、あまり有り難味を感じませんでした、事実と真実は違います。

私はとても共感を覚えます。読書の楽しみ方もそれぞれでいいと思っているのです。

少し引用しましたが
三好達治「測量船」から「乳母車」の詩について、心惹かれる詩人は詩集がいい。

西城八十について、歌謡、流行歌を多く残しているが、生き方の他方の面から考察もしている。

黄泉路かへし母よふらここおしたまえ 星野慶子

「ふらここ」ブランコのこと
響きも優しい。「鞦韆」という固い響きもいいが、やはり日本語のふんわりとした言葉や淡い悲しみが感じられる歌に親しみを覚える。
目次は21ある、数え歌しりとり歌もあって懐かしい。
2も読んでみよう.


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