サイトをSSL化しました。セキュリティアップ!

完全なる首長竜の日



乾緑郎

姉は漫画家で成功したが、その将来に不安がある。弟は一家で行った奄美の海で溺れ、意識不明で入院している。姉と弟はチューブでつなぐ意識交換の治療を受けていると、弟の意識が伝わってくる。

第9回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞受賞作。

審査員が全員一致で決まったそうで、そんなことを不意に思い出したので読もうかなと積読の山から下ろしてきた。
テーマは映画「胡蝶の夢」らしいが。読んでいくうちに、あの不思議な胡蝶の夢の雰囲気もどこか感じられるようになってきたが、映画のテーマは別にしても時代が違う。今なら病院に収容されても、夢を探る機器も現代的で、主人公はこれが夢なのか現実か迷う事も記録に残せる。あるいはときには冷静に向き合うことができるかもしれない。

主人公の女性は漫画家で成功している。子供のころ一家で行った奄美の島で幼い弟が波にのまれた。
西湘にある病院では、それ以来入院して昏睡状態の弟に、技師が立ち会って意識と繋がる実験(セッション)を行っている。そこで弟の意識に強い自殺願望があるのを知る。
姉もともに被験者になっている。一時的に頭にチップを埋め込むSCインターフェイスを採用して、脳を刺激してお互いの感情を呼び出し、弟とドリームボディを共有する(センシング)、これは技師者が常に記録をとっている。

漫画を描くには様々な行程がある、作品の評判がよく忙しくなったので助手を雇い、自宅にはデビュー当時から指導をうけた編集者も加わっていた。だがプライベートに使うリビングには誰も立ち入らせない孤独な生活をしている。
時代の波で漫画雑誌の読者傾向の変化とともに、月刊の連載が打ち切りになった。仕事の後始末の段階になったがまだ当分暇がない。

リビングに不意に弟が現れる。そして部屋でピストルを撃って自殺するが、気がつくと弟は既に跡形もない。

編集者にその様子を話すとまるで「胡蝶の夢」のようだねといった。姉の意識か、弟の意識か。現実なのか、幻なのか。根拠なく現れたり消えたりするようになる。
繰り返し、子供のころ遊んだ奄美の海を思い出す。磯で満ちてきた潮にさらわれていく弟を助けようと懸命に繋いだ手を離してしまったのだ。
事故の後、父は母と別れて去り、母は死んだ。
時々、それも不意に現れる弟は、いつも自殺をして消える。弟はなぜ自殺したいのか。

そのうち新たな人物が現れるようになる憑依(ポゼッション)なのか。
そしてついに、それが日常生活にまで入り込んでくる。
現れる人たち、現れては死んでいく弟。頻繁に異常が日常になってくる

ついに奄美のあの島に行ってみる、歳月の影響はあるが確かに記憶の場所に家があり、海岸は護岸工事で形は変わっているが海は満ち干を繰り返し、若い両親や伯父たちが周りにいる。そして耐え切れず過去の風景から逃げて帰ってくる。

病院のそばの海岸を散歩して、首長竜の置物を見つける。それは仕事部屋にあったあの置物なのだが、なぜここに。

この物語は様々なモチーフがちりばめられている、それらの作品が何らかの形で、テーマを繋ぎ、弟や周りの人たちとの意思疎通の形を支え、インパクトを次第に強め、読者を物語の中に引き込んでいく。
まず最初に「胡蝶の夢」。サリンジャーの「ナインストーリーズ」。マグリットの非現実的な風景画等々。こうして主人公の前に現れていた現象が(夢か現実か)終盤になって、主人公を伴って大きな展開を見せる。

「胡蝶の夢」のようでもあり、また夢から醒めてもまた夢の世界のようでもあり、現実はどこにあるのか。こういった構成がいい。
ただ、登場人物を語るには、現象が統一されないままに多すぎる、主人公の混沌がそのまま読者に手渡されてくる。それを最後に、姉の存在理由を一気に閉じることは、無理があるように感じる。本人にもわずかに自覚されてきた病状が、終わりに向かって失速気味なのはとても残念だった。

随分前に「胡蝶の夢」らしい映画を見た。モノクロで、老人(荘子だったのだろうか)が若返って美女に会いに行くというようなストーリーが妙に幻想的で現実離れはしているが、見る夢が、跡を残さずかすかに心理的な痕跡だけを残す、そういった世界を、姉と弟のつながりの中で一種のオマージュのように書こうとしていることが理解できる。

こういった感情や意識が、正常だという自覚があっても時にふっと心が流されていくことがあるが、読んでいると、この過去にトラウマのある姉が見る世界に誘われそうになりつつ、物語は不思議な風景と世界をストーリーは行き来する。
この不安定な精神は過去の出来事に常にリンクしているようで、その心理は非日常に形を変えて派生して取り留めもなく、現実に溶け込みそうになる表現がこの作品全体の非現実感で覆いつくしている。ときに誰しも支えもない危ない淵に立っているように思えることがあり、そう言った感覚に共感を持った。

作者の手にかかり夢は予期しない形で終わる。揺れ方が非日常に見えて現実でもあるように。


お気に入り度:★★★★☆
掲載日: