新世界



柳広司

我が国の歴史に残る禍根の中で最も残酷で悲惨な出来事、核爆弾の投下、それを題材にしてフィクションのフィルターをかけ重厚に描き出した、ゼロアワー前後の科学者の功罪。

今、核の傘の下で、一瞬で日常の世界が溶けて焼失したあの時が次第に遠くなっているのを感じている。アメリカ大統領が初めて広島を訪れ長崎の大浦天主堂が世界遺産に認定された。
あれから半世紀はとっくに過ぎた。
広島を訪ねて、原民喜が書いた生々しい世界を実感したそんな記憶も歴史の中に沈みかけている。

ミステリ作家の柳さんが作り出したフィクションの世界があまりにリアルで、読みながら頭を垂れずにはいられなかった。
これはミステリ小説で、事実を声高に訴えて伝えようとしたものではない。
資料にあたり、知識を積み重ねてストーリーを作った柳さんの小説で、ほかの多くのミステリ小説のように、犯人は誰なのかなぜそんな事件が起きたのかがテーマになっている。
有名な事件や歴史上の人物を題材にした柳作品の一つだった。

それでもあえてこの作品の奥から、かすかに浮かんでくるヒューマニズムとかモラリスムとか言った言葉に頬が赤らんできたり、一方では天に恵まれた才能が、好奇心や功名心の陰で人類の世界が見えなくなっていく恐ろしさを感じながら読み終えた。

戦争の終結、原爆投下に成功すれば勝利を世界に宣言できる、結局それが人類のためになるということでマンハッタン計画が始動し、砂漠に鉄条網で包囲したロスアラモスという人工の研究都市ができた。

世界大戦の渦中にあった国々から亡命しあるいは移住した天才たち。ノーベル賞を受賞した世界の最高峰の科学者を集めて20億ドルをかけて核爆弾を作るという研究がついに成功した。ゼロアワーを迎え、実行したパイロットたちが帰還した。

現地では8月14日、ロスアラモスは歓喜に沸いた。戦争は終結した。すでにドイツは敗北宣言をし、日本も無条件で降伏した。
大がかりなパーティを開いて飲んで踊った。

そして21発の祝砲代わりに準備した爆薬を砂に埋めて火をつけた。
最後の一発で爆薬のプロが量を間違えて火薬が炸裂し爆風で吹っ飛んだ。側に立っていた給水塔が倒れて下敷きになろうという所を、パイロットの一人が駆け付けて救い出した。

彼はヒロシマの英雄だけでなく人命救助の英雄になった。
怪我をした二人は入院していたが、病室を間違えたのか、一人が撲殺される。

ゼロアワーからおよそ1か月前、原爆開発を指揮したオッペンハイマーの学友の私(語り手、イザドア・ラビ)がロスアラモスを訪れる。

「トリニティ計画」と名付けられた原爆実験が行われ成功したが、オッペンハイマーは壊れかけている、実験に近づけないようにしてほしいと頼まれた。
しかし彼は昔から奇人に近い印象がある物理、化学、言語学に至るまでマルチな才能を持ちわが道を行く天才だった。

久しぶりに会った彼は常軌を逸するほど変わってはいなかった。逆に私は彼から事件を調べてほしいと依頼される。

私は閉ざされた研究所の中で、未来に向けて核の研究に没頭する科学者たちを訪ねる。
成功した核分裂爆弾のために事故にあい、放射線を浴びた科学者の被ばく反応が進み間もなく亡くなるまでのカルテを見る。医者は極秘事項として自分の研究材料にしていた。

こうして個人的には核爆弾研究のコロニーに属しながら、自己の研究のためにはすべてに無関心な人々を調べて歩く。

オッペンハイマーは指揮者としての役目をこなしながら、イルカを主人公にした、新世界に向けて宇宙に船出する寓話を書き、時々は幻想の世界に迷い込んでいるようだった。

科学者のひとりは言う

「核融合爆弾、つまり水爆の開発は単に可能なだけでなく、今や避けられないものなのです」
「ロシア人が核分裂爆弾を手に入れるのが必然なら、我々はその前に核融合爆弾を開発するのです。核分裂爆弾の威力には限界がある。核融合爆弾には理論上の限界点を持たない。用意した核融合物質――たとえば重水素――の量に応じて、いくらでもエネルギーを取り出すことができるのです、水爆からは、今ある原爆の百倍、いや、千倍もの威力を持つ爆弾を作ることが可能でしょう」

いくら秘密裏の研究でもロシア人科学者はその仕組みを頭に入れて自国に持ち出すことも可能だ、と私は考えて調べていく。

犯人は小さなコミュニティに閉じ込められ、徐々に信じて来た生き方から脱しようとしていた。
そうした道徳的な裏の顔と、欲望の中で生きる通俗的な表の顔との矛盾を、非道徳的な方法で解決しようとする結末が人間の持つ精神の限界かもしれない。
未知の世界を開く科学に敬意をを持ち希望を託した新しい未来。核抑止力が正しく機能していくこと、過去は取り返しがつかないことであり、生み出してしまった核を利用しながら今を生きて行くしかない人類の未来を「新世界」と呼ぶ。

科学者の信じる可能性は現実を凌駕して、国家をも超えるのではないか。
それが科学者の宿命かもしれない。
しかしどんなに優れた才能に恵まれたとしても、創造主の力には及ばない、垣間覗き見た世界をそれだと思うのは傲慢だと賢明な人類は知っている。命を弄ぶ愚を生々しい現実として書いている。
被爆国の作家が書いたフィクションが読後までこんなに力があることに感動した。

作者の柳氏が、エージェントが持ち込んだ原稿を読むところから始まる物語は、オッペンハイマーの親友が謎解きをする。フィクションでありながら作者の想いがなぜかリアルに感じられるような優れたミステリだと思った。

他にも面白い史実を題材にした作品があるのを知って、読んでみたくなった。


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